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優秀な社外取締役が、身内の17億円買収を止められなかった本当の原因

2026.09.07

目次

1.世界最大手ワコムで起きた驚くべき「社外取締役のスライド人事」

 ペンタブレットの世界最大手であるワコムで、コーポレートガバナンスの観点やM&Aに関する意思決定の観点からちょっと見過ごせないよなと思われる一件が起きています。まずはその経緯を簡単に述べます。

 同社の社外取締役を務めていた中嶋崇史氏が代表を務める未上場企業・リクロスエクスパンションを、ワコムが約16.96億円で買収し、その中嶋氏が社外取締役を辞任して、そのまま本体の業務執行トップであるCOO(最高執行責任者)へ就任した——という人事です。

 リクロス社は、英国系アクティビストのAVI(アセット・バリュー・インベスターズ)の開示によれば直近決算で純資産約400万円、営業赤字約1400万円規模の会社でした。監督する側にいた社外取締役が、自らの会社を会社に売り、執行のトップへ横滑りする。筆頭株主のAVIはこれを利益相反と批判し、2026年5月、井出信孝社長と中嶋COOの解任を求める株主提案を提出しました。ワコム側は、第三者算定機関による評価と特別委員会での審議を根拠に、手続きは公正だと反論しています。

2.第三者評価とシナジー——二つの「免罪符」を疑う

 ワコムがこの取引の公正性の根拠として挙げるのが、大手会計系コンサルによるDCF法の株式価値算定(13億〜20億円)です。買収額16.96億円はこのレンジ内に収まっている、という説明ですね。

 しかし、この説明は取締役会の免罪符にはなりません。DCF法の計算そのものは、おそらく正確に行われているでしょう。ただDCF法の起点になるのは、あくまで「経営陣が作成した将来計画」です。算定機関も計画の合理性を一定程度は確認しますが、その実現可能性まで保証することは基本的に責任の範囲外で、算定書にも「経営陣が作成した事業計画を前提とした」旨が明記されるのが通例です。だからこそ、壮大な計画を前提に置けば、赤字企業からでも十数億円という数字は出てきます。私の個人的な経験ですが、こういったコンサルがある程度依頼主の意図を忖度するということは十分あることです。

 ここで見落とされがちなのは、その前提となった「将来計画」が本当に実現するのか——その最終的な当否を引き受けることは、算定機関の役割ではない、という点です。彼らは与えられた前提のもとで計算を行うプロであって、前提そのものの成否を保証する立場にはありません。だとすれば、この買収が適正だったか否かは、結局のところ社外取締役が「経営陣の将来計画」の妥当性をどこまで厳しく吟味したかにかかっています。私なども第三者委員会の委員などで関与した際のポイントは第三者機関の計算ではなくこの「経営陣の将来計画」の妥当性です。「第三者が評価している」の一言で思考を止めてはならない、というのが私の実感です。

 もう一つ、純資産と買収価格の巨大な乖離を埋める説明として必ず登場するのが「シナジー」です。ワコムも、DX推進や電力・環境分野のITコンサルティングといった新事業への貢献を、買収の意義として説明しています。

 正直に申し上げると、私はこの手の「シナジー」を、よほど具体的な計画が伴わない限りまったく評価しません。いつ、誰が、どの製品・サービスで、どれだけの売上と利益を生むのか——その問いに数字でロジカルに答えられないシナジーは、買収を正当化するための後づけの理屈に過ぎないからです。AVIが実質PERは200倍超だと指摘したのも、要は「その乖離を埋めるだけの計画が見えない」という主張だと私は受け止めています。

3.優秀な社外取締役が、なぜ止められなかったのか

 私がこの件で最も考えさせられるのは、ワコムの社外取締役のメンバーを拝見したところ決して「弱い」布陣ではなかった点です。適当に有名人や外国人・女性、経営陣のお友達を集めた布陣ではないです。IT・DX、HR、資本市場、法務、財務・内部統制——各分野の実力者と思われる方が名を連ね、独立社外取締役は過半数を占めていました。形式的には、東証プライムが理想とするガバナンス体制です。

 しかも、AVIとの対話は昨日今日始まったものではありません。すでに2025年6月の第42回定時株主総会で、AVIは自己株式の取得や資本効率の改善、事業構造の監督委員会設置などを株主提案しています(会社側の反対で否決)。当時の争点は、あくまで「仕組み」をどう整えるかでした。それが2026年の買収の表面化を境に、「経営陣の利益相反と資質」を問う解任提案へと質的に深まっていったのです。つまり取締役会には、外部の視線を意識する時間も材料も十分にあったはずでした。

 それでも身内の取引を止められなかった。ここに、日本の取締役会が陥りやすい二つの罠があると感じています。

 一つは、手続きの充足が実質判断の代わりになってしまうことです。「第三者鑑定を取り、特別委員会で審議した」というプロセスを踏んだ事実が、いつしか免責の根拠にすり替わる。純資産400万円の同僚の会社を16億円超で買うことが市場からどう見えるか、という常識レベルの吟味が、手続きの陰に隠れてしまうのです。

 もう一つ、私がより本質的だと感じるのが「認知の捕獲(cognitive capture)」です。中嶋氏は井出社長と8年に及ぶ並走を重ね、おそらく取締役会の内部で高い評価を得ていた人物だと想像されます。長く信頼関係を積み上げた相手に対しては、社外取締役であっても、外部の投資家が向けるような冷徹な財務規律より、「彼の力量なら会社を伸ばしてくれる」という内側の期待が先に立ちやすくなるかもしれません。その結果、市場からは「お友達買収」と映る取引が、取締役会の内部では「将来に向けた正当な投資」として正当化されてしまったのではないでしょうか。

 社外取締役の本分は、経営を支援することもありますが、どちらかというと社内の取引に客観的な視点で場合によってはブレーキをかけることにあります。優れた経歴を並べ、委員会と鑑定書を整えるだけでは、利益相反は防げない。むしろ鑑定書があるからこそ「前提となった将来計画は誰がどこまで検証したのか」と問い、シナジーという言葉が出たら「その中身を具体的な数字で示してほしい」と一歩踏み込む、そして納得できるまで説明を求める——その面倒な作業を引き受けられるかどうかに、社外取締役の実質は表れます。

 個人的な体験としてはそのおかげで「面倒な奴」ということで「お友達グループ」から徹底的に排除されたこともありましたが・・・。

 ワコムの一件は、その事実を私たちに突きつけていると思います。

 

 

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